ベネズエラ ベネズエラ・ボリバル共和国 (ベネズエラ・ボリバルきょうわこく)、通称ベネズエラ は、南アメリカの国のひとつである。北側にはカリブ海・大西洋、東側にはガイアナ、南側にはブラジル、西側にはコロンビアと接する。コロンビアと共に北アンデスの国家であるが、自らをカリブ海世界であると捉えることも多い。ベネズエラ海岸の向こうには、クラサオ、アルバ、オランダ領アンティル、トリニダード・トバゴといったカリブ海諸国が見える。
ガイアナとは現在ガイアナ領のグアジャナを巡って19世紀から領土問題を抱えている。 国名
正式名称は、República Bolivariana de Venezuela。通称、Venezuela。公式の英語表記は、Bolivarian Republic of Venezuela。通称、Venezuela。日本語の表記は、ベネズエラ・ボリバル共和国。通称、ベネズエラ。ヴェネズエラという表記もある。スペイン語の発音は「ベネスエラ」、英語では「ヴェネズエラ」が近い。ベネスエラという名の由来には諸説があり、一つはイタリアのヴェネツィアに由来するというものである。1499年この地を訪れたスペイン人の探検者、アロンソ・デ・オヘダとアメリゴ・ヴェスプッチが、マラカイボ湖畔のグアヒーラ半島に並び建つインディヘナたちの水上村落を水の都ヴェネツィアに見立て、イタリア語で「ちっぽけなヴェネツィア」("Venezuola")と命名した事によるとされている。もう一つは、この地に住んでいたインディヘナが"Veneciuela"と呼ばれており、そこからVenezuelaに成ったのだという説であり、この説によるとベネスエラという国名は土着の言葉から発展したものだということになる。どちらの説が正しいかという論争は絶えないものの、現在一般的な説として信じられているのは前者である。なお、国名のボリバルとは、ラテン・アメリカの解放者
シモン・ボリーバルのことである。 歴史
前コロンビア期から征服へ
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元々この地にはカリブ族系のカラカス族、テスケ族や、アラワク族といったインディオの諸民族が生活していた。インディオ達はインカ、マヤ、アステカ、チブチャのような高度な文明は築かなかったが、マラカイボ湖には水上村落が確認され、この地からカリブ海諸島へ航海していったインディオも多かったようである。
しかし、クリストバル・コロンの新大陸発見の後、多くの征服者がこの地を訪れ、スペイン人による南アメリカ大陸での恒久的な入植地が1523年にクマナに建設され、1526年にはベネスエラ全土がサント・ドミンゴのアウディエンシアに統括された。
しかし期待された黄金を産出しないことが分かるとスペイン王室から見捨てられ、ハプスブルク家のカルロス1世は神聖ローマ皇帝になるための資金を集めるために、ドイツのヴェルザー家に貸し出すなど、植民地としての待遇は最も悪かったといっても良い。
その間インディオ達は征服者に激しく抵抗し、特にテスケ族のグアイカイプーロは諸部族をまとめて戦いを挑んだ。1567年、ディエゴ・デ・ロサーダはグアイカイプーロ軍の隙を突いてアンデス山中のグアイレ渓谷中心部にサンティアゴ・デ・レオン・デ・カラカスを建設したが、それでもこの地の完全平定は17世紀以降にもつれこんだ。ベネスエラ全体の完全平定後、イギリス海賊や地震に脅かされながらもこの地はサント・ドミンゴのアウディエンシアによって統括されていたが、カリブ海のイスパニョーラ島から大陸部が統治されるという状況には無理があったため、
1717年以降、1739年には正式にサンタフェ・デ・ボゴタを中心としたヌエバ・グラナダ副王領に編入され、カラカスを中心にベネズエラの原型というべきまとまりができあがった。その後ボルボン朝の改革の中で、ラテンアメリカ各地の新副王領創設のブームに乗って1777年にベネスエラ総督領が成立し、1786年にはようやくカラカスに独自のアウディエンシアが誕生して司法権がサント・ドミンゴから独立した。こうして一つの地域としてのアイデンティティを保つようになったのである。
このように貴金属を産しなかったこの地はラ・プラタ地域と並んでスペイン植民地の中でも開発が遅れた土地となったが、その分スペイン王室の監視は緩く、タバコやカカオのプランテーションが黒人奴隷の移入により発展した。1728年にカラカス会社が設立されると貿易が拡大し、スペインのみとの貿易に飽き足らなかったボリーバル家をはじめとする現地ブルジョワジーはイギリス、オランダ、フランスとの密貿易を望み、その代価としての富と共に自由主義思想が流入することになった。そうして生まれた富裕層がルソーらのフランス知識人の影響を受けて、後のラテン・アメリカ独立運動において指導的な役割を果たすようになったのである。その変遷はかなり複雑である。 解放戦争とシモン・ボリーバル
)、アルトゥーロ・ミチェレナ画 Óleo sobre tela.]]
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将軍]] 何回かの失敗に終わった蜂起ののち、シモン・ボリーバルの指導の下で1821年にスペインからの独立を達成した。ベネズエラは現在のコロンビア、パナマ、エクアドルとともに大コロンビアを形成したが、1830年に分離して独立国になった。1797年にフランス革命戦争の一環としてベネスエラ総督領のトリニダード島がイギリスに占領され、1802年には正式に割譲されるといよいよベネスエラにもヨーロッパの戦争が身近なものになってきた。
1806年に元スペイン軍の軍人で、ヨーロッパ各界の著名人と親交があったフランシスコ・デ・ミランダがベネスエラ独立のためにアメリカ合衆国から200人の義勇兵を率いて上陸した。この蜂起は失敗したが、スペイン本国にナポレオンのフランス軍が侵入して兄のホセ1世を国王に据えると、イスパノアメリカ植民地は偽王への忠誠を拒否した。1810年5月カラカス市参事会はフェルナンド7世への忠誠を宣言し、7月5日にはベネスエラのスペインからの独立を宣言した。ここに解放戦争が始まった。
同年12月、シモン・ボリーバルはカラカス市参事会を代表して亡命していたミランダを連れ戻し、かくしてベネスエラ第一共和国が成立した。しかし、1812年3月のカラカス大地震によりカラカスは大打撃を受け、市の2/3が崩壊すると解放軍の指導者に就任していたミランダにもスペイン軍を止めることは出来ず、
かかる状況下で降伏と亡命を主張したミランダはシモン・ボリーバルによってスペイン軍に引き渡され、カディスで獄死した。以降解放戦争の主導権は不屈の闘志を抱いたボリーバルに引き継がれることになる。ボリーバルは現コロンビアのヌエバ・グラナダ連合州が支配していたカルタヘナに逃れて抵抗を続けたが、
ナリーニョは1812年に崩壊したベネスエラ共和国を代表して抵抗を続けていた、シモン・ボリーバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリーバルも1813年にはベネスエラを再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増した。連邦派(ヌエバ・グラナダ連合州)と集権派(クンディナマルカ共和国)の不一致を突かれる形で、1814年2月にはクンディナマルカ共和国が崩壊し、ナリーニョはスペインに連行され、投獄されてしまった。ボリーバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦い、ボゴタを奪還したものの、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。スペイン軍の攻撃により1816年5月、ボゴタは陥落した。しかし、ボリーバルはイギリスなどと友好関係を結んで援助を受けることに成功し、さらにハイチ南部を支配していたアレクサンドル・ペション大統領に、ラテンアメリカの解放後、黒人奴隷を解放することを条件に援助を受けた。1816年にはまたもやベネスエラに上陸したが、ジャネーロの協力を取り付けただけで敗れてしまい、ハイチに引き返すことになった。そうこうしているうちにボゴタが陥落してしまったが1817年、今度は準備を整えてベネスエラに再侵攻し、スペイン軍の裏をかいてまずヌエバ・グラナダを解放しようとした。ベネスエラのアンゴストゥーラが解放された後、
1818年にはジャネーロ(オリノコ川流域の平原部=リャノに住む、牧童たちのこと。ベネスエラのガウチョ)の頭目だったホセ・アントニオ・パエスの力を借りることに成功し、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国が再建され、コロンビア共和国も創設された。1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリーバルはコロンビア共和国の建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。こうしてボリーバルはヌエバ・グラナダを拠点に故国ベネスエラの解放を進め、1821年にカラボボの戦いでの勝利によりカラカスが解放されると、ベネスエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。ボリーバルがペルー・ボリビア方面の解放に向かう中、1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリーバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となり、不在の大統領に代わってヌエバ・グラナダを治めていたが、
1827年のボリーバルの帰還後、コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する アントニオ・パエスの不満は大きくなっていった。サンタンデルは1828年にはボリーバルの暗殺を謀ったため亡命した。さらにキトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起き、もはやボリーバルの威信の低下は明らかであった。その後もボリーバルの分裂を回避すべく統治したが、上手く行かず、ベネスエラが独立を要求した。コロンビア共和国の維持は解放者の力量を持ってしても不可能かと思われた。1830年にエクアドル(キトとグアヤキルが連合して赤道共和国を名乗った)と、故郷ベネスエラはパエスの指導下で完全独立を果たし、南米大陸統合の夢に敗れ、自分の政治的な努力が全て無為に終わったことを悟った解放者は終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意内に病死した。解放戦争が終わった時、南米大陸各地での戦闘の主力を担ったベネスエラ兵は多数の死者を出し、さらに戦時中の地震、疫病によりクリオージョの伝統的な支配層は崩壊し、人口は独立前の3/4程の80万人に減っていた。 分離独立とカウディージョの支配
ベネズエラの19世紀から20世紀初頭は、政治的不安定と独裁政権による支配、革命による政権の交代に彩られ、独裁か無政府状態が続いた。ボリーバルの危惧はベネスエラにおいて的中したのである。1830年、アントニオ・パエスは第四代大統領に就任し、以降1847年までパエス時代と呼ばれる専制政治が続いた。
当時のベネスエラは中央集権的な国家だったが、パエスの連邦主義的な志向により中央集権派(ボリーバル派)は権力を持つことなく排斥された。こうした状況の中で1840年にはパエスに反対する勢力が反専制、反教会を掲げて自由党を結成し、1846年には内戦が起こしたがすぐに鎮圧された。その後1847年にホセ・タデオ・モナガスが大統領に就任すると、自由主義的な政治が進み、以降1858年までモナガス兄弟による専制支配が続いたが、これも反対勢力の攻撃にあって崩壊し、反乱軍の指導者だったフリアン・カストロが大統領に就任した。 連邦戦争
。1860年死去.]]
カストロは1858年に連邦主義的な1858年憲法を制定したが、連邦主義者の不満を宥めるには至らず、エセキエル・サモーラ、フアン・クリソストモ・ファルコンらの自由主義者が反乱を起こし、1859年から1863年まで自由党派と保守党派の間で「連邦戦争」が行われた。パエスは1863年のコチェ協定で和解し、同年ファルコンが大統領の下にベネスエラ連邦が成立した。しかし、1868年にモナガス親子のクーデターによりファルコン政権は崩壊し、再び不安定な状態に陥った。 グスマン時代
将軍、大統領在任: 1870年-1877年、1879年-1884年、1886年-1888年]]
1870年から1888年までをグスマン時代と呼ぶ。1870年に内戦を収めて政権を握ったアントニオ・グスマン・ブランコは、自由主義的カウディージョとして国内の近代化を進め、アメリカとフランス、特にパリに憧れ、カラカスをパリ風に改造することに力を注いだ(当時のブエノスアイレスでも同じことが行われた)。18年間の在任中に反教会政策(1/10の税の撤廃、公教育の世俗化、教会財産の没収など)、鉄道の敷設、自由貿易などによってベネスエラの近代化を図ったが、パリに外遊中に保守派や独裁に反抗する勢力の反乱により失脚した。
この時代は経済のモノカルチャー化が進み、1880年代にはコーヒーが輸出総額の55%を占めるまでの主要産業となり、1890年代にはおよそ80%に達した。1895年の英領ガイアナを巡ってのイギリスとの国境紛争があったが、米国の調停により和解した。しかし領土問題は今も続いている。 石油と独裁
将軍, gobernó a Venezuela con puño de hierro desde 1908年 hasta 1935年, fecha de su muerte.]]
1899年に以降アンデス出身の二人の独裁者によって35年近い独裁政治がなされたので、ベネスエラでは特に1908年から1935年をゴメス時代と呼ぶ。アルゼンチンのフアン・ペロンのように進歩的なカウディージョがポプリスモを気取るようなことはなく、19世紀以来の剥き出しの暴力の政治が続いた。ゴメスの死後政権を握った軍人もタチラ州の出身である。1899年のアンドラーデ政権で議決された中央集権憲法に対する地方の不満と、折からのコーヒー不況を背景にして1899から1903年に繰り広げられた内戦は、コロンビア国境付近のタチラ州のジャネーロの頭目だったシプリアーノ・カストロが権力を得る機会を作った。カストロは1899年に「レスタウラシオン」(維新革命)を掲げてカラカス入りすると、大統領任期を6年に延長し、普通選挙を撤廃して大統領職を形骸化させた。カストロ時代にはヨーロッパとの対立が顕在化し、1902年12月には内戦中被った被害の賠償を要求した英、独、伊の海軍がラ・グアイラ、プエルト・カベージョを襲撃する事件が起きた
アルゼンチンの外務大臣ルイス・ドラゴはドラゴ・ドクトリンを唱えてこの事件を批判し、米国の調停もあってこの事件を有利に解決し、基盤を磐石なものにした。しかし1908年カストロの副官としてカラカス入りし、副大統領となっていたフアン・ビセンテ・ゴメスはカストロがフランスに渡った隙を突いて、米国の支持と共に軍内のカストロ派を廃除し大統領職に就任した。
その手法から「アンデスの暴君」と呼ばれたゴメスはカストロ時代に発生した欧米との問題を解決し、財政を立て直すために外資を導入した。こうした政策は講を奏し、傀儡大統領を据えて権力を維持し、大恐慌をも切り抜けて1935年まで27年間に渡って政権を維持した。1914年にマラカイボ湖で油田が発見された。石油開発は外資優遇政策によって順調に進み、農業国だったベネスエラは1930年にはメキシコを抜いて世界最大の石油輸出国となった。
こうして出てきた石油収入により公共事業や各種産業が興り都市化が進んだ。これによりベネスエラではコロンビアと並んでアンデス諸国では厚い中間層が形成され、ベタンクール以後のベネデモクラシアはこの中間層と富裕層によって成り立っていたと言っても過言ではない。
1928年の学生暴動でロムロ・ベタンクールらが逮捕され、幾人かの活動家が死亡したがこうした反体制派は後に「1928年の世代」と称されることになる。1935年にゴメスが死ぬと、ゴメス派や家族への暴動が起き、私刑が行われたが、翌1936年に国内の混乱を収めたゴメス派のエレアサル・ロペス・コントレーラス将軍が実権を握り、軍事政権が継続した。
しかし、政権の弾圧は弱くなり、亡命先のコロンビアから帰国したベタンクールが中心となってベネスエラ選挙革命組織が形成され、翌1937年には国民民主党として政党になった。1941年に発足したイサイアス・メディーナ・アンガリータ将軍の政権では労働者への懐柔が進み、同年7月には国民民主党は民主行動党 (AD)と改称し、当局からも合法化された。メディーナは文民政治と改革を志し、軍の青年将校もこの路線に従って政治から手を引くことを望んでいた。このような青年将校と民主行動党の連携によって1945年の10月革命が成功したのである。1945年10月18日、民主行動党が軍政に反対する軍の青年将校と結んでクーデターを起こし、メディーナ政権が転覆した(10月革命)。これによりベタンクールが臨時大統領に就任したが、軍部との矛盾が次第に明らかになると1948年にクーデターが起き、軍事評議会が政権を握って民主行動党は再び非合法化され、ベタンクールらの指導部も亡命した。軍内部の実力者だったマルコス・ペレス・ヒメネスは、この状況下で行われた1952年の大統領選挙での民主共和国連合の勝利を無視して自ら大統領に就任し、その後1958年まで再び軍事独裁政権が樹立された。
また、1950年代の独裁時代にはヨーロッパや、域内途上国からの移民の流入が進むことになった。 ベネデモクラシア
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独立以来ベネスエラでは軍人統治が主流だったが、ようやくベネスエラにも民主化の光が刺してきた。1958年の民主化以後、ベネズエラは文民による民主主義政権によって統治されている。1957年12月、自らが1953年憲法で定めた五年の任期が切れそうになると、ヒメネスは自らの権力に合法性を与えるために信任投票を実施した。不正選挙によりヒメネスは圧勝したが、逆にこのことが反対勢力の増長を招き、翌1958年1月21日に政党と海空軍が反乱を起こし、ヒメネスは亡命した。後を継いだ軍穏健派のウォルガング・ララサーバル将軍は12月に民主的選挙を実施し、コペイ党、民主共和連合を破って民主行動党のロムロ・ベタンクールが勝利し、翌1959年2月に正式に大統領に就任した。こうしてベタンクールは民主的に選ばれ、かつ任期を無事に過ごし、次の候補者へ民主的な手続きで政権を移譲することができた最初のベネスエラ大統領となった。こうしてベネスエラではベタンクールの指導下に各党の間に政党政治の原則が確認され、軍人の独裁に代わって文民による民主的な統治の伝統が築かれることになり、ベネスエラ人はこの状況を「ベネデモクラシア(ベネスエラの民主主義)」と呼んだ。この民主主義体制の成立にはベタンクールだけではなく、野党コペイ党のカルデラや軍の実力者の協力も大きく、こうした勢力が一致してその後のテロやクーデターを克服することになる。ベタンクール大統領は石油輸出国機構の成立に携わった一方で、内政でも外交でも反共を貫き、ベタンクール・ドクトリンの下でキューバのフィデル・カストロ政権と敵対した。内政では進歩のための同盟の路線に沿って1960年に土地改革が行われたものの、公有地とペレス・ヒメネス派の私有地の再分配に留まり大土地所有制の解体にまでは至らなかった。こうした政策に反感を覚えた共産党と、連立政権から脱退した民主共和連合、及び民主行動党の左派が脱退して結成された革命左翼運動が左翼ゲリラを組織し、キューバの支援を受けて革新的な軍の一部と共に東部山岳地帯でゲリラ戦を開始した。1964年に成立したレオニ政権にこの難局を切り抜けることはできず、結局ゲリラへの恩赦を公約にして当選したコペイ党のカルデラが1969年に大統領に就任した。カルデラはベタンクール・ドクトリンを転換させてキューバ敵視政策をやめ、東側との関係改善を行った。1973年の選挙では民主行動党が再び政権に返り咲き、カルロス・アンドレス・ペレスが大統領に就任したが、積極外交の一方で徐々に国際収支は悪化して行き、赤字は積み重なっていった。また、汚職や腐敗が酷くなっていったのもこの時期である。そしてこのように進展する民主主義の影に、社会正義が実行されないという状況が発生し、1979年に就任したコペイ党のルイス・エレーラ・カンピンスはこの問題に直面した。
石油収入で得た放蕩財政は赤字を積み上げ、理念として掲げられていた貧困層の救済は実態を回復するものではなく、カラカス郊外のランチョ(スラム)は拡大し、中間層や富裕層の奢侈は酷くなっていった。1980年代初頭には石油収入にも関わらず債務不履行に近いところまで追い込まれ、政府機関と非能率な国営企業の赤字は積み重なっていき、失業、経済停滞が続いた。この傾向は1984年のハイメ・ルシンチ政権でも是正されず、こうして蓄積した社会矛盾が現在の恐るべき鬼子を生み出すことになる。 チャベス時代
1989年に民主行動党のペレスが再び政権を握ったが、石油価格の低下は債務危機と共に緊縮財政を余儀なくし、こうした中で1989年に実施された公共料金の値上げはカラカス暴動を招き、死傷者700人を出した。
こうした状況下で1992年、軍の空挺部隊の一員だったウーゴ・チャベス中佐が2月と11月の二度に渡って、数十年ぶりに軍事クーデターを起こそうとしたが、これは失敗した。
翌1993年にはコペイの創始者のカルデラが貧困層や中間層へのポプリスモ的な政策を掲げて当選したが、それでも経済停滞は貧困層への十分な対策を立てれなかった。
1998年12月の選挙で、1992年のクーデター未遂の首謀者で、第五共和国運動を率いたウーゴ・チャベスは貧困層からの圧倒的な支持を受けて当選し、民主行動党とコペイ党の二大政党制は崩壊した。1999年に大統領に就任したチャベスは徐々に立法、司法、行政を自派で占めて行き、この事実上の独裁政権は反米主義、反新自由主義、反グローバリズムを訴えて次第に国内の他の政治勢力やマスメディアへの締め付けを行い始めた。こうした中で2002年にアメリカ合衆国の支援を受けた反チャベス派によるクーデターが実行されたが、これは失敗した。
さらにチャベス大統領は解放者に敬意を示して国名をベネズエラ共和国からベネズエラ・ボリバル共和国に変更し、2006年3月には国章の馬の向きを「右」方向に走っているデザインを「左」方向に走っているデザインに変更した。チャベス大統領は2021年までの大統領在任を仄めかしているが、これが実現すればゴメス時代以来の長期政権になるだろう。ベネスエラ情勢は予断を許さない。 政治
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「ラテンアメリカには独裁か無政府状態しかないのではないだろうか」とシモン・ボリーバルが危惧したように、ベネスエラでは1830年から1955年まで一世紀以上に渡り、カウディージョや軍人による専制政治と内戦が続いた。クーデターが起こりやすい国でもあり、一時期ほどの頻度ではないものの、近年でも1992年と2002年のクーデター未遂事件は記憶に新しい。
ロムロ・ベタンクール以降、石油収入を背景にベネデモクラシアと呼ばれた民主化が富裕層と中間層を主体にして進み、二大政党制が確立したが、民主化の中でも埋まらなかった経済的な格差を背景に、貧困層に対してポプリスモ的な政策に訴えたウーゴ・チャベス元中佐が1999年に当選した。大統領を国家元首とする共和制。1999年12月に新憲法が制定され、大統領の権限が強化、任期も5年から6年に延長された。選出は、国民による普通選挙によって行われる。前回投票は、2006年12月3日に行われ、現職大統領が再選。大統領自身が行政府の長として内閣を統率する。
議会は、新憲法になって両院制から一院制に変わった。スペイン語でAsamblea Nacional(アサンブレア・ナシオナル、すなわち国民議会)と呼ばれる。全165議席で、うち3議席は先住民に保障されている。議員の任期は5年で、国民による普通選挙で選出される。1999年に発足したウゴ・チャベス政権は、内政では保健と教育を最重要視する政策をとっている。低所得層が住む地区での無料診療所の開設、学校の建設、非識字者や学校中退者のための補習プログラムなどがその例である。貧困層重視の政策は、強引な政治手法とあいまって、富裕層、中産階級、以前の有力政党と結ぶ労働組合から強い反発を受けた。2002年4月にはチャベスのやり方に反発する富裕層や軍部が、CIAの協力の下にクーデターを起こしてチャベス大統領を逮捕し、代わりの政権を樹立したが、大衆の大規模デモと軍内部の反乱によって失敗した。12月から翌2003年2月にかけては石油産業でチャベス辞任を求めるストライキが起こり、ベネズエラ経済は大打撃を受けた。また、スト終結後1年間は経済後退が著しかったが、続く2004年には石油価格上昇もあいまって経済が急速に回復し、政権支持率もそれにともなって上昇した。そして8月15日に大統領リコールの国民投票が58%対42%で否決されると、政情は一応の安定をみた。しかし野党は国民投票と以後の選挙結果を認めず、2005年12月の議会選挙では主要野党が選挙をボイコットした。このため現議会は与党と与党寄りの政党によって全議席が占められている。2006年12月3日の大統領選挙でチャベスは63%の得票で3度目の当選を果たし、今度は野党候補も結果を承認した。 地方制度
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地方制度は、州 (エスタド、estado) 、市町村(ムニシピオ、minicipio)、区(パロキア、parroquia)の三層だが、自治体とは呼べない区を除くなら二層になる。州は23、首都地区が1、連邦保護領が1ある。首都地区と連邦保護領は州政府にあたるものを持たない。形式上連邦制をとるが、ベネズエラは南米でも中央集権的な制度の国で、州の独立性は弱い。1989年まで、州知事は共和国大統領の任命制であった。市町村にあたるムニシピオは、日本語で人口に応じて適当に市、町、村などと訳し分けられる。市郡とする人もいる。かつては州と市町村の間に郡(ディストリト、distrito)があったが、1980年代に廃止された。基本的に、かつての郡が新しい市に、かつての市が新しい区に相当する。中にはバルガス州のような一州一市の例もある。市町村の上に立つ特別な自治体として、カラカス大都市地区とアルトアプレ郡がそれぞれの特別法によって設けられている。区はかつて教会の教区と一致したが、現在では別のもので、区別するために民区(parroquia civil)と呼ばれこともある。小さな市では一市一区のところが多く、区役所は置かれない。選挙で選ばれるのは州知事、州議会議員、市長、市会議員、区議員で、区長は任命制である。
連邦保護領(Dependencias Federales)
首都地区 (Distrito Capital) (主な都市 チャカオ市、バルータ市、エル・アティージョ市) 軍事
詳細はベネズエラの軍事を参照せよ。ベネスエラには長らくコロンビアのような文民統治の原則は存在せず、軍はもっぱら内戦、クーデター、国内のゲリラ鎮圧のために存在した。
近年チャベス政権の下で軍拡が進み、近隣諸国に警戒心を抱かせている。
また、辛うじて回避されたが、2004年のコロンビアのアルバロ・ウリベ親米政権からの侵攻も一時現実味を帯びたものになった。ベネスエラ陸軍
ベネスエラ海軍
ベネスエラ空軍
国家警備隊 地理 , la caída de agua más alta del mundo.]]
sobre el Río Orinoco.]]
, Gran Sabana.]]
Venezolano]]
北にカリブ海に面し、コロンビア、ブラジル、ガイアナに接する。中央部のジャングルをオリノコ川が流れる。北東部には南米最大の湖、マラカイボ湖が存在する。コロンビアまで続くオリノコ川流域の平原部をジャノと呼び、国土の主要部はアンデス山脈が延びてきている。 観光
南東部にはテーブルマウンテンやサルト・アンヘル (英:エンジェルフォール)で有名なギアナ高地がギアナ三国まで続いている。カリブ海には、ロス・ロケス諸島やマルガリータ島などのビーチリゾートがある。アンデス山脈の観光地としては、メリダがある。ここには世界最長のロープウェイ(全長12.6km)があり、そこの最高地点ピコ・エスペホからベネズエラ最高峰のピコ・ボリバル(5007m)へ行くことができる。 経済
ゴメス時代にマラカイボ湖で石油が発見されるまでは、ベネスエラはコーヒーとカカオを主としたプランテーション農業の国だったが、1930年代には石油輸出額が第一次産品を抜き、1950年代にアメリカ・ソ連に次ぐ世界第三位の産油国となった。現在のベネズエラの経済は完全に石油に依存しており、輸出収入の8割ほどが石油である(2003年現在)。OPECの原加盟国であり設立に際して重要な役割を果たした。
中南米でトップクラスの高所得水準を誇る背景には、豊かな鉱山資源があげられる。しかしながら、農牧業の生産性は低く、食料品の半分以上を輸入に頼る。 鉱業
ベネズエラは鉱物資源に恵まれた国である。有機鉱物資源では、2001年時点で世界第8位(世界シェア4.8%)に位置する原油(1.6億トン)をはじめ、世界シェア1.8%の天然ガス(1624千兆ジュール)が際立つ。ただし、石炭は759万トンと少ない。金属鉱物資源では、ボーキサイト(500万トン、第7位、1.9%)、世界シェア1.9%の鉄鉱(1150万トン)、同1.4%のニッケル鉱(1.8万トン)のほか、金、ダイヤモンド、リンを産する。このため、輸出に占める鉱物、もしくは鉱物を原料とする工業製品の割合は金額ベースで約90%に達する。品目別では原油 (58.3%)、石油製品 (23.6%)、鉄鋼 (3.1%)、アルミニウム (2.0%)、化学薬品 (1.5%) である。 経済基礎指標と対外関係
1999年度
GDP (PPP) 1,828億ドル (OER) NA 実質成長率 -7.2% 国民一人当たり(PPP) 8,000ドル
インフレ率 20% 失業率 18% 対外債務 340億ドル 外貨保有額 NA
政府収入 NA 政府支出 NA 政府債務のGDP比 NA
輸出額 209億ドル 輸出先 US 57%
輸入額 118億ドル 輸入先 US 53%
2000年度
GDP (PPP) 1,462億ドル (OER) NA 実質成長率 3.2% 国民一人当たり(PPP) 6,200ドル
インフレ率 13% 失業率 14% 対外債務 382億ドル 外貨保有額 NA
政府収入 215億ドル 政府支出 270億ドル 政府債務のGDP比 NA
輸出額 328億ドル 輸出先 アメリカ 60.0% ブラジル 5.5% コロンビア 3.5%
輸入額 147億ドル 輸入元 アメリカ 35.8% コロンビア 6.8% ブラジル 4.5%
2001年度
GDP (PPP) 1,462億ドル (OER) NA 実質成長率 2.7% 国民一人当たり(PPP) 6,100ドル
インフレ率 12.3% 失業率 14.1% 対外債務 NA 外貨保有額 NA
政府収入 NA 政府支出 NA 政府債務のGDP比 NA
輸出額 286億ドル 輸出先 NA
輸入額 188億ドル 輸入先 NA
2002年度
GDP (PPP) 1,328億ドル (OER) NA 実質成長率 -8.9% 国民一人当たり(PPP) 5,500ドル
インフレ率 31.2% 失業率 17% 対外債務 NA 外貨保有額 NA
政府収入 201億ドル 政府支出 233億ドル 政府債務のGDP比 NA
輸出額 NA 輸出先 アメリカ 45.1% オランダ領アンチル 12.8% ドミニカ共和国 2.8%
輸入額 NA 輸入元 アメリカ 32.1% コロンビア 8.0% ブラジル 6.2%
2003年度
GDP (PPP) 1,179億ドル (OER) NA 実質成長率 -9.2% 国民一人当たり(PPP) 4,800ドル
インフレ率 31.1% 失業率 18% 対外債務 208億ドル 外貨保有額 NA
政府収入 NA 政府支出 NA 政府債務のGDP比 38.8%
輸出額 258億ドル 輸出先 アメリカ 52.7% オランダ領アンチル4.9% ドミニカ共和国 2.9%
輸入額 107億ドル 輸入元 アメリカ 29.2% コロンビア 7.1% ブラジル 6.2%
2004年度
GDP (PPP) 1,452億ドル (OER) NA 実質成長率 16.8% 国民一人当たり(PPP) 5,800ドル
インフレ率 22.4% 失業率 17.1% 対外債務 332億ドル 外貨保有額 257億ドル
政府収入 269億ドル 政府支出 307億ドル 政府債務のGDP比 43.1%
輸出額 358億ドル 輸出先 アメリカ 55.5% オランダ領アンチル4.7% ドミニカ共和国 2.8%
輸入額 149億ドル 輸入元 アメリカ 28.8% コロンビア 9.9% ブラジル 7.0%
2005年度
GDP (PPP) 1,537億ドル (OER) 1,061億ドル 実質成長率 9.3% 国民一人当たり(PPP) 6,100ドル
インフレ率 15.7% 失業率 12.3% 対外債務 397億ドル 外貨保有額 307億ドル
政府収入 396億ドル 政府支出 412億ドル 政府債務のGDP比 32.0%
輸出額 527億ドル 輸出先 アメリカ 50.9% オランダ領アンチル7.2% カナダ 2.4%
輸入額 246億ドル 輸入元 アメリカ 31.6% コロンビア 11.0% ブラジル 9.1%
2006年度
GDP (PPP) 1,764億ドル (OER) 1,479億ドル 実質成長率 8.8% 国民一人当たり(PPP) 6,900ドル
インフレ率 15.8% 失業率 8.9% 対外債務 356億ドル 外貨保有額 359億ドル
政府収入 522億ドル 政府支出 529億ドル 政府債務のGDP比 28.4%
輸出額 692億ドル 輸出先 NA
輸入額 288億ドル 輸入元 NAベネズエラ国営石油公社PDVSAはアメリカ国内に現地法人を設立し、アメリカの国民・法人に石油を販売している。 ベネズエラ政府の公式サイトの国家統計機関の貿易・投資の統計は石油部門を除外して貿易・投資の全体額と相手国別の構成比率が把握できないので、データはCIA World Fact Book の各年度版から引用した。 対外経済関係の将来的変化
チャベス大統領は貿易相手国の多様化、対外経済関係のアメリカへの依存度の低下をめざしているが、アメリカとの経済関係をゼロにすることも、著しく減少させることも、長期的には可能であるが、2007年の現時点で直ちにゼロにすることも著しく減少させることも非現実的である。
アメリカは連邦政府・連邦議会としては、ブッシュ政権の一期目は石油産業の影響を受けて、地球温暖化説に対して科学的な証明が十分でないとの認識を表明し、京都議定書から離脱し、温暖化対策への取り組みを拒否してきた(州政府・州議会・企業・NGOとしての取り組みは継続していた)が、温暖化対策勢力の運動と働きかけにより、2005年以後は連邦政府・連邦議会としても温暖化対策を積極的に推進する政策に転換している。
具体的には、2005年の包括的エネルギー法を制定し、国民の生活、法人の事業、行政機関の事業に必要な燃料、エネルギー、素材を、化石資源の燃料・エネルギー・素材から、生物資源の燃料・素材、自然資源のエネルギー・素材に転換するための、技術・製品・インフラを開発・普及するための資金・制度を政府と民間が連携して総合的に取り組む体制を形成している。2007年4月現在ではCO2排出の量的規制には未着手、京都議定書の次の枠組みに対しても態度が不明確たが、それは今後の議会・政府の政策判断、または、ブッシュ政権の次の政権が開始する2009年1月以後の政府と議会の判断による。
アメリカが化石資源の燃料・エネルギー・素材から、生物資源の燃料・素材、自然資源のエネルギー・素材への転換を国家プロジェクトとして政府と民間の連携した取り組みにより、アメリカの石油消費の絶対量と、燃料・エネルギー・素材の資源としての比率の低下と、ベネズエラの貿易相手国の多様化が実現すれば、ベネズエラも含めてアメリカと石油輸出国の経済関係・外交関係も大きく変化し、ベネズエラとアメリカの経済関係も時間の経過とともに現状よりは著しく関係性が低下すると予測される。
チャベス政権は2007年5月1日、欧米の国際石油資本(メジャー)が同国オリノコ川流域で進めてきた超重質油の軽質油化利用開発事業の国有化を宣言した。オリノコタールとも呼ばれる超重質油の可採埋蔵量は2千億バーレル以上とされ、この軽質油化事業が成功するとベネズエラは将来サウジアラビアに匹敵する産油国に成長する。
2007年6月、ベネズエラ北部の大規模油田開発事業から米国の エクソンモービルと コノコ・フィリップスの国際石油資本(メジャー)2社が撤退することが報道された。石油国有化政策を強めるチャベス政権のやり方に反発してと思われる。 国民
にあるマルガリータ島。]]
はサーフィンに適している。]]
のビーチ]]
ベネズエラ人は多くの人種と民族が合流して生まれており、現在も移民が流入し続けている。先住民はインディオのカリブ族、アラワク族などが住んでいたが、現在先住民の社会を維持しているのはアマゾンの密林の中に住む少数である。白人は植民地時代のスペイン人が主で、当時は植民地社会の上層部にあった。独立後は他のヨーロッパ諸国からの移民も増え、現在もポルトガルなどから流入しているが、近年では政治的な理由により富裕層や中間層がアメリカ合衆国へ流出している。
アフリカ系ベネスエラ人は植民地時代に奴隷としてつれてこられた人々の子孫である。アジア系は他より少ないが、独立後に移民した華僑(中国系)がおり、小商店主として成功した。
しかし、アジア人に対する人種差別が激しかったため、南米の国の中で日本からの移民はかなり少ない方であり、現在は600人程とウルグアイの日系人の倍程度である。
最近では中南米諸国、特に隣国コロンビアからの、難民に近いような移民が多い。世代を重ねて混血が進んだため、人種集団をはっきり区分することはできない。人種別統計は長くとられておらず、そうした調査も実施されていないが、北米、日本、欧州では各国の研究者が独自に調査したであろう出所不明の構成比が出回っている。ベネズエラ人の主流の意識は自らをメスティーソとし、ベネズエラをメスティーソの国とするものである。
人種差別が表に現れることを恥ずべきという意識はあるが、街頭などで人種的な偏見を口に出す人間は他のラテンアメリカ諸国に比べても多い。皮膚感覚では南米で一番酷い国であるという者もいる。
そして現実社会では他のラテンアメリカ諸国と同じように上流階級が白人で占められている。当然のことだが白人が他人種より上にあるという関係が個人間でなりたつわけではなく、下層の白人も中流の黒人もいる。しかし、多くの域内諸国と同様に多くの黒人や有色人種に機会の均等が保障されているわけではない。英語版Wikipediaの出所不明の構成比によると、ベネスエラ国民はメスティーソが49%、ヨーロッパ系が20%、中国系、アラブ系のアジア系が2%、インディオは1%となる。
カリブ海諸国と並んで奴隷を輸入するのに条件が良かったためか、黒人の人口比は最小限に見積もれば9%、メスティーソやムラートやサンボなどを含めて最大限に見積もれば70%に達する。
主な移民の出身地としては、イタリア、スペイン、ドイツ、ポルトガル、シリア、レバノン、インド、パキスタン、中国、日本、コロンビア、チリ、ドミニカ共和国、エクアドルなど。1940年代から1950年代にかけてヨーロッパからの移民ブームがあり、1950年から1958年までで実に45万人が流入した。人口の都市化率は85%であり、73%は北部のカリブ海沿岸100km以内に住んでいる。国土の約半分を占めるオリノコ川以南には人口の5%しか居住していない。言語はスペイン語が公用語であり、かつ日常生活で最も使われている。31のインディオの言葉があり、政府は先住民の言語を通用させる努力を規定しているが、話す人は限られている。宗教はローマ・カトリックが96%、プロテスタントが2%である。 文化 ベネズエラの文化はラテンアメリカ的な伝統に大きく影響を受け、特にインディオ、スペイン人、イタリア人、黒人の影響が強い。 文学
ベネスエラ・ロマン主義など。 映画
社会問題となっている営利誘拐を取り扱った、『誘拐特急』(邦題は『ベネズエラ・サバイバル』)は記憶に新しい。 音楽 ジャノから様々な音楽が生まれた。ホローポは国民音楽であり、アルマ・ジャネーラ(平原児(ジャネーロ)の魂)というフォルクローレは第二国歌とも呼ばれている。
また、やはりカリブ海諸国の常としてサルサが盛んであり、何人かの重要なミュージシャンも輩出しているが、ベネスエラ独自のリズムでコロンビアのクンビアのように、国境を越えて商業的な成功を遂げたリズムは現在のところ存在しない。これを知られざる音楽大国と呼ぶか、音楽的に薄く商業的な成功の見込めない地域と呼ぶかは微妙なところである。 スポーツ スポーツにおいては、 ボクシングが有名。最古の国際機構である WBAの本部が置かれており、世界王者も多数輩出しているが、近年は興行数も激減し低迷気味。さらに2007年からは、WBAの本部も前本部の パナマに戻っている。
その分 サッカーは弱く「南米最弱」といわれてきたが、最近は強化が進み、 W杯まであと1歩のレベルに達している。
BMXではここ数年でトップライダーになった ダニエル・デルスが有名である。ニップルツイスター(コーク720ターンダウン)というトリックが武器。
関連項目
外部リンク
公式
その他
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